この年になると1週間があっと言う間に経ちます。今日日曜日のキズナっ仔の期待馬は、今年最も期待しているG1馬(今年の安田記念制覇)の4歳牝馬のソングラインです。今日中京競馬場でセントウルステークスに出走です。次走に予定しているアメリカのブリーダーズカップの試走でテン(発送してすぐの意味)の早いアメリカの競馬を想定して1200mのレースを選択しました。是非勝ってアメリカ遠征に向かってほしいものです。今日は他にも期待馬が多いです。同じレースにはダディーズビビット(4歳牡馬)も出走します。
今日からメーカー別と国別にレーシングカーの歴史を振り返りたいと思います。ルマン出走車ばかりでは無く他のレースに出走したマシンを台数が多い場合はメーカー別、メーカー別では少ない場合は国別でまとめたいと思います。第1回はアストン・マーティンです。アストン・アーティンの名前の由来は正にレースと深い関係が有ります。
1913年にロバート・バムフォードとライオネル・マーティンが、レーシングドライバーでもあったルイス・ズボロフスキー伯爵の援助の元に設立され、1915年に「シンガー」と言う車を改造して製作された1号車が、イギリスのバッキンガクシャーの村「アストン・クリントン」で行われたヒルクライムレースでマーティンが成功を収めた事から「アストン・マーティン」のブランド名が誕生したとの事です。13年後の1928年に2台のマシンでルマンに初参戦。2台ともにリタイアでした。次回は1931年で2台で参戦。№25が、距離部門で5位、1500cc部門で初入賞しました。翌1932年は、№20が、距離部門で5位、1500cc部門で初優勝しました。1933年も№25が、距離部門で5位、1500ccクラスで優勝、性能指数部門でアルファに続き2位となりました。1934年は、5台で参戦も№20が距離部門で10位に止まりました。翌1935年は下のマシンの同型車の№29で総合3位、1500ccクラス優勝、性能指数部門でも優勝し、賞賛の的となったと言われています。
戦前のルマンは、1939年迄開催されましたが、アストンは、思った程の成績は残していません。戦後のルマンの再開は1949年でフェラーリが166MMで初優勝。
プライベートで参加の上のマシンは、後にDB1と呼ばれDBを冠した初代のレースカーで距離部門11位、性能指数部門でも12位と言う立派な成績でした。アストンが、ワークスとして参加は、DB2で下の№19は、アストンとしては唯一6気筒エンジンを搭載していましたが、冷却系のトラブルで英国車勢初のリタイアでした。
DB1、DB2のフロントグリルの形状は今のアストン・マーティンのフロントグリルの形状の萌芽が見てとれます。いよいよ競馬が始まる様ですので本日はこれ迄に致します。次回ソングラインの優勝の話題が載せられる事を願っています。